褒められるということ

わたしは、自分を貶すのは自分だけが良いし、自分を褒めるのも自分だけが良いです。

きっとこの考えは理解できないひとには意味不明でしょうし、それでも分かってくれるひとも一定数いると思います。

「大勢のひとに褒められて認められるほうがいいじゃん」――わたしもそう思います、いや、思っていました。

けれどなぜかしら、これを思ったのは貶されたときではなく褒められたときなのです。

ごめんなさい、そんな人間じゃないんですあなたのお気に召さないかもごめんなさい、期待を裏切ってしまったら、期待と正反対だったらごめんなさい。

結局、他人との見解の相違が怖いんでしょうね。

わたしが「友達がいない」と発言したときの、クラスメイトの「友達だと思ってた」という反応が思い出されます。そんなつもりじゃなかったんだけどな。これも「友達」の定義の相違。

「褒められる」というのは受動的なもので、私が能動的にならない以上、主導権は能動的に動いた褒めたひとに渡ります。

とはいってもひとに興味がない以上、わたしは能動的になれないんですが。

そしてここで見解の相違が起こると、「裏切られた」のは能動的に動いて主導権を持っている褒めたほうのひとです。

(ふつうこの場面でわたしが「裏切られた」ことにはなりませんし、わたしが裏切ったてない、ではなく、相手が裏切られたてない、なのでわたしの発言はここでは意味を成しません)

例えば褒めたひとが大勢いて、「裏切られた」ひとより多ければ私は守られますが、もし「裏切られた」が多数派なら……。

どちらにせよ、これはわたしの世界がわたしだけで完結していたならば起こらないことです。

また、わたしは単純に他者の評価に依存することが嫌ですしそんなひとが苦手です。

「愛されたい」というひと。誰かを愛したほうが人生は豊かになる……というのはわたしの持論です。

(少なくともわたしは愛されただけじゃ鬱陶しいとしか思えませんでした)

ちなみに、「貶すのはわたしだけが良い」という話はカンタンで、単純にわたしが他人の批評をありがたく思えるほど向上心はないからです。

ついでにわたしは既に心の中に自分を批判するもうひとりの自分を飼っているので、そういうのは間に合ってるんです。

それにわたしには他人の期待に応えようとする器用さやバイタリティ、ポテンシャルなんかはありませんし。

ちょっと違いますが、漱石の「自己本位」にも似たような境地だと思います。故郷から離れて暮らしたことも無い10代なので烏滸がましいですね。

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