みんな違って、みんないい

「みんな違って、みんないい」

かの詩人、金子みすゞさんのことばですね。

 

さて、それはどうでしょうか。

「みんな違って」の部分には同意します。ひとはみな違うものであり、誰かを自分の基準で同じだと決めつけることは傲慢です。

どんなに条件を揃えようと苦心したって、「全く同じ」とはいかないもの。性別や育ってきた環境が違えば尚更です。

 

わたしが賛成しかねるのは、「みんないい」の部分。

「みんな」の定義にもよりますが、わたしはそれを全世界の人口――大体70億人のことだと捉えました。

「みんないい」というのは簡単です。しかし、この世には多くの人間がいますから、ある程度数があれば誰かと誰かが矛盾し対立することは必至。

「自分と正反対のことを言うひとも肯定しろ」と言うのはこれもまた傲慢であると思います。

それに、全てひっくるめて「いい」とするのは少しばかり乱暴なようにも感じます。

 

わたしは、自分と違う立場のひとを無理に良しとしなければならないことはないと思います。

どちらかというと、「否定しない」「関わらない」がわたしにとっては好ましい。

「いい」ではなく、「悪くはない」のです。

そういうわたしの考えを、「事なかれ主義」と言うのでしょうか。

 

先ほどの「事なかれ主義」ですが、字面がよろしくないと思われたひともいるのではないでしょうか。

わたしが使った「傲慢」や「乱暴」も、わたしがそれを否定していると思ったひともいるのでは。

「事なかれ主義」「傲慢」「乱暴」は、マイナスの意味で使われることが多いことばです。しかし、わたしは決してそれらをマイナスのことばとして使っているわけではないのです。

 

ものごとは常に多面的です。

考え方次第で、メリットが見えたりデメリットが見えたりする。

これは持論ですが、メリットとデメリットのどちらか片方の面しか持たないものは存在しないと思っています。

メリットの定義にもよりますけどね。

例えば、「頭がいい」。

これは一見メリットしか持ち合わせていないように見えます。

ですが、頭の良さはそれを活かす道を選ぶことを周囲に求められます。自分のしたいことをするのに戸惑いが出来てしまいます。「できること=したいこと」ではないですし、それでも求められているのは「できること」の部分ですから。

頭が良いことが知れれば、その道を選ばなかったときに「もったいない」と言われる。反対だってたくさん受けるでしょう。それがうまくいくとも限りません。

何かに秀でている人間はそれに人生を縛られますし、したいこととできることが一致していたとしても、上には上がいます。半端な良さでは自分に絶望するだけです。周りが自分より頭が良かった場合、そればかり言い続けられてきたそのひとは、「それしかない」と思ってしまったそのひとは、一体どうすればいいのでしょう。

それに、「できる」ひとには、「できない」ひとの苦難が分かりません。他人の心情を推し量ることが出来ないのは、それだけでデメリットのように感じられます。

「事なかれ主義」の場合は、良く言えば「平和主義」です。

事なかれで回避できる問題もあるでしょうし、もしかしたら肥大する問題もあるかもしれません。「いずれは立ち向かわなければいけない」かどうかさえも分かりません。「今が良ければそれでいい」わたしなんかは好ましいですが、「長い目で見て考える」タイプには理解不能かもしれません。

傲慢や乱暴はひとまとめにしますが、どちらも四六時中気を遣って神経をすり減らす必要はそうでない人たちに比べて少ないでしょう。

繊細や丁寧は、それだけで常に疲れます。身体に重しをつけているようにずっと。

 

少し論点がずれたような気がしますが、とにかく名言は必ずしも真実とは限らない、ということです。わたしはそうだと決めつけてかかるのはおすすめしません。楽ですけどね。

カウンターするより、左の頬を差し出すより、わたしは逃げるコマンドを連打します!という話でした。

何かを否定してしまいそうなとき、否定されて落ち込んだ時は、「みんな違うもんな」でなんとなく楽になるかもしれません。

わたしはとんでもなく理不尽な扱いを受けたとき――例えば道端で誰かにぶつかられて舌打ちをされたときなど――は、あのひとは今日10万円スッて親友に裏切られペットに先立たれ上司に叱責されてどうしようもなく八つ当たりしたいんだな、と思うようにしています。そしたら相手への「イラッ」がおさまるどころかむしろ同情したくなるので。

わたしのメンタルの秘訣は慮って適当に自分に都合のいいことがらを心のなかででっちあげる、です。声に出さない限りは自由でしょう?

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