頑張れっていうことば。
とてもとても、苦手です。
わたし、頑張るなんて言っていない。
受験があるとは言ったけれど、奨学金とれたらいいなと思ってはいるけれど、頑張ろうなんて思っていない。
怠惰がいい。頑張らないのがいい。
わたしは、わたし自身が幸せなら、何をしてもしなくても自分を許すつもりでいるし、
頑張らなくてもとりあえず今は幸せになれると思ってる。
怠惰で死んでもいいと思ってる。
今が幸せを積み重ねたのなら、ずっと幸せでしょう?
わたしの幸せに、多くのお金は要らない。
もやしと豆苗の塩炒めを食べて四畳半で生活していけるだけあればいい。
あとはそう、紙とペン。もしくはそれが出来る電化製品。……もしくは、それを思い浮かべられる頭。
もちろん、それ以上のお金を手に出来たら生活レベルは上げると思う。でもその程度。
死んでもいいことを加味すると、わたしは頭があれば幸せかなと思える。
わたしにとって幸せとは、感情によるものだから。
環境が全てじゃない。感情の方が割合的には勝ってると思う。
そんなことを考えるくらいには、わたしは怠惰でいるし、頑張らない。頑張りたくない。
だから、怖い。
無理矢理意識させられる気がする。
「頑張る」方向に。
頑張らないなんて許さないと言われているようで、しんどい。
わたしの人生に誰かが何かを言う資格なんてないと思ってる。何人たりとも許されないと。
そこらへんに互いに干渉する余地などないと思っているし、ある程度ちゃんとしたロジックもある。今は端折るけど。
あとは、そう。
あのひとたちが善意で言っているとわかるからこそ、苦手だ。
その善意を無碍にするようなものだからね。
や、大丈夫、自意識過剰なのは分かってる…誰もそこまで考えて発言してなどいないし、きっと言ったことも覚えていないだろう。撤回を要求すればすぐにでも取り下げてくれるような、発言したものにとっては何の価値もないことばだと。
それでも、ことばは呪いだ。
言霊っていうほどスピリチュアルなことは言わないけど、たとえば思っていないことばを繰り返し言わせることでマインドコントロールは成功する。
それくらい強いもので、それは呪いたり得る。
あとはそう、いじめの話。
人間は基本的に、やったことよりやられたことの方が覚えが良い。
サンクコストということばを出すと真逆のようだが、本質は変わらない。
やったやられたは積極的受動的という意味ではなく、得した損した(と思った)、という意味だと捉えて欲しい。
「いじめをやる」のは、損得の二元論で言えば「得した」に入るだろう。実際にはその経験が後々尾をひいて損することになったとしても、いじめた時点では「損した」とは思わないはずだ。ただ利益の話ではなく、心情的なものも含めて考えると、人間は自分に得なことしかしない、というのは至極当然の原理であろう。
「損した」と思うから、際限なくつぎ込む。「得した」「損失を取り返せた」と思うまで。
「得した」場合もつぎ込むだろう、しかし、その場合は、サンクコストということばにはたどり着かない。損失というワードがないんだし。
損失を回収不可能だと諦めるのが早ければ早いほどそのことはとりあえず忘れるし、撤退が遅く追い詰められたら、例え一生を棒に振るまではいかなくても相応の期間覚えているしフラッシュバックされるはずだ。
わたしの持論ではいじめたほうがそれを覚えているのは無理やなと思うが、それはまた次の機会に。
つまりなにかというと、他人からの「頑張れ」が気になってしまう、恐怖を感じる、つまりそういうことだ。
それでは。